癌患者の食事・生気について

世の中がほんのわずかずつだが動き出しているように感じる。

前回書いたみたいに薬が届かないなんてこともなくなったようだ。

しかし、平日は相変わらず、たま~に停電がある。

母のガンは依然としてものすごい速度で進行中。

左耳周辺には沢山のコブのような隆起ができて、もはや原型を留めてはいない。これはどうすることもできない。

最近では、夜間の時には、別グループの地域まで出かけて夕食をとるようにしている。

「癌患者は体を冷やしてはいけない」。これは前回にも書いたが、ガン患者は免疫力が低下しているため、例えば風邪などの軽い病気でも一旦発症してしまえば治すことが難しく、最悪命に関ってくる。
これは、僕ら家族にとっても言えることで、いっしょに暮らす僕や父が風邪をひいたとしても、母にうつしてしまう可能性がある。

だから、僕らも体調管理はしっかりと行わなければならない。
しかし、我が家の暖房器具といえば、湯たんぽくらいしかない。

それをこたつに入れて家族三人身を寄せ合い、母の体温が下がらないように気遣っていた。
暗いと心細くなるのだろう。夜になると母は「やだねぇ。やだねぇ。」と繰り返す。

僕と父は、なるべく会話が途切れないように無理やり明るい話題を探し、ラジオや音楽をかけて少しでも母の不安を取り除こうと努める。

が、日が沈んで暗くなると、どうしても会話が弾むというところまではいかず、こちらまで気が滅入ってくるようだ。

そんな家の中にいるよりは賑やかな地域に避難したほうが賢いというものだ。市街地のファミレスまでひとっ走り。

外食に行くようになったのはもうひとつ理由がある。
母が、お粥や潰した米でなく、普通に炊いたご飯を食べられるようになったのだ。
抗がん剤治療を終えてからというもの、ガン患部の左耳からの影響で母は口をあまり開けない状態だった。

僕が実家に戻った2月当初は、物を噛むと激痛が走っていたようだが、今は全く痛くないという。
痛み止めの効果もあるだろうが、それよりは母の体そのものが体力を取り戻したことが大きいんだと思う。
人間の体は本当に不思議だ。

ガンは大きくなるが、同時に他の部分は回復していくのだ。
希望的観測から言えば、このままガン細胞のほうも小さくなってくれれば…と思うが、それは求め過ぎというものか。
しかし、久しぶりのレストランに母は心なしかはしゃいでいたようだ。

最初は、白い大きな耳の保護パットを他人に見られるのを気にして恥ずかしがっていたが、僕と父で「大丈夫。誰もきにしてないよ。」と言い聞かせると落ち着いたようで、ドリンクバーなんか、たくさんおかわりしていた。
考えてみれば、1月の入院前以来の外食だもんな。嬉しそうな母を見て、なんだか泣けてきた。
不景気だ人で不足だ何だので今も苦しんでいる方達がたくさんいる。

どんな言葉を用いても、のほほんと暮らす我々が現地の方の代わりになってあげることはできない。

だから、励ましの言葉やお見舞いを述べたりは敢えてしません。
ただ、ガン患者を持つ家族の意見として、こんな時でも絶望したりマイナスな考えだけは決して持たないようにしたいと思う。

今、僕にできることは、ビジネスマンとして経済の復興につとめること。そして、全力で母を守ること。

冷たいかもしれないが、それが今の僕にできる最大限。

癌のせい?文字が書けない

「頭が痛い」と母が言う。

最初は左耳のガン患部かと思ったが、そうではなく、頭頂部の内側が痛むようだ。
昼間に病院に行って来たが、痛み止めの薬がまた入っていなかったようで、夕飯後に父が取りに行った。

それまでの間、数時間空いたことによって朝飲んだ薬の効果が切れてしまったせいかと思われるが、なんともやるせない。

母は、そんなギリギリのところで生かされているのだと実感してしまう。
しかし、左耳だけでなく頭の真ん中まで痛むというのは心配だ。くどいようだが、母のガンは足を休めることなく進行している。
「だんだんガンが耳から脳に移ってきちゃってるのかな…」

などとぼんやりと思うが、すぐに頭を振って打ち消す。
こういったことは、今こうして文章に書いている時には、第三者から見たことのようにどこか麻痺している。

そんな自分自身を変に思いもするが、それすらも頭の後ろのほうでおぼろげに思うだけだ。
この間の小さな地震についての話をしている時、母は「東日本巨大地震」と紙に書いて、そこにふり仮名を振っていた。

書道をやっていただけあって、そこに書かれていた漢字は間違いも無くキレイなものだった。

だが、ふり仮名を見て、僕も父も思わずハッとなってしまった。
「ひがしにほん きょしん しょしん」。
どうも母は脳の言語野をやられてきてしまっているようだ。

自分の書いている文字を認識できていないみたいで、しゃべりたいことを順序だてて話すことが困難になってきている。

これは、15年前の脳腫瘍摘出後にも起きたことで、母はそれから数年かけてようやく人並みに文字を読んだり書いたりできるようになった。

が、今回の場合は今後治っていくという希望が持てない。
その日、父は、母が寝室に入ってから僕を呼び

「なるべく母さんに話しかけて、母さんにもたくさんしゃべらせよう」

と提案してきた。
母は携帯メールに返信するのも大変みたいで、短い文章でも何度もやり直しが必要だった。
僕がそばについて教えてやると

「代わりに打って」

と言ってくるが

「自分でやらなきゃだめだよ」

と、心を鬼にする。
母は、指で空中に一字一字描きながら、ゆっくりと携帯のキーを押し、欲しい文字を探す。

そんな母に、僕は

「がんばれ、がんばれ」

と言いながらも、声が震えてきてしまう自分に気付いて、悟られまいと口をつぐんでた。

母、ガンで倒れる

朝8時頃、母が倒れた。文字通りに立っていたところから床に倒れたのだ。朝食を食べ終わり、僕がキッチンでお茶を入れようとしていた時だった。

急にリビングの方から「ドサリッ」と大きな音がした。ダイニングの隔壁から覗きこむと、母の足だけが床に伸びているのが見えた。

 あわててリビングに走り込むと、母が床に仰向けに倒れていた。頭は、マガジンラックと観葉植物の鉢の間に挟まるようになっていたが

意識はあるようで、「痛たた…」と言いながら後頭部を押さえていた。

 ヒヤリとした感覚が僕の体を走った。母のガン患部は左耳。

しかも、左側頭部には3回も脳腫瘍手術で切り開いた手術痕がある。母を助け起こしながら、反射的に父を呼んでいた。

父は、所用で東京に出かける予定で、まさに玄関で靴を履いているところだった。

僕の呼びかけにすっ飛んできた父といっしょに、母をとりあえず近くにあったこたつに入れる。

「大丈夫?」「どこを打った?」などと問いかけている矢先、母の左耳から「ポタリッ」と血が垂れた。

僕も父も、それは焦った。

母を横にならせて、ティッシュで患部を抑え止血。ガーゼと耳を覆う保護パッドを取り替えて布団に寝かせ、ようやく落ち着いた。

母の左耳ガン患部は、相変わらずすさまじい。

複雑なはずの耳の形は原型がなく、何度も血が出ているカ所は膿が溜まっていた。

いや、膿が出るだけまだいい。 白血球が存在していれば一応、傷は現状維持でそう大きくは広がらない。

母が言うには

「急に目が回って、倒れた」そうで、それも血液中の成分が減っているからだろうと想像はできる。

病院に連れていくべきか、もう少しこの場で寝かしておくべきかやはり、判断は父に任せることにした。

しかし、僕は情けない気持ちだった。

普段から母のケアは父に任せっぱなしだ。先程の処置もほとんど父がやった。

母が倒れた時、父がすでに家を出ていたら僕はガーゼの在りかもわからなかった。父も仕事を引退して家にいるから、と甘えていた自分。

結局、父が東京行きを中止してくれたから、こんな風にブログなんぞ書いてられる。

仕事しているとはいえ、パソコンでできる在宅だ。

「俺はなんのために実家に戻ってきたのだ」と、いま猛烈に自分を責めたい気持ちだ。もっともっと母のために時間を使おう。もっともっとガンと向き合おう。

そうだ、ガンと闘うには家族全員が惜しみなく力を合わせなくてはならない。

癌から回復の兆し

その日は昼の11時だというのに、母は寝ていた。録画してあったドラマを見ているうちに眠ってしまったようだ。

 

僕がほんのちょっとだけ出演したドラマ。役者の仕事をやっていて良かった。僕が画面に映るたびにミーハー根性を出して喜んでくれる。

少しは体が活性化して癌治療にも役立ってくれたらいいなぁ。ロクデナシの僕が唯一両親に誇れる点。かな。

母のガンの状態。

本人はイマイチ自覚してないようだけど、左頬の腫れが大分引いたように思う。

いままで離乳食をさらにスプーンでブヂュブヂュに潰した流動食しか食べられなかったのに、

今日はお粥をそのまま食べられた!

がん患者でも、肉体は確実に回復して来ているのだ。

人間の体ってスゴイ!!

昨日行ったガンの相談センターでも、抗がん剤に頼り切らない治療の考え方を聞いた。

もちろん、一切それ抜きでは延命すら難しいが抗がん剤はガン細胞だけでなく、正常な細胞までも攻撃してボロボロにしてしまう悪魔の薬だ。

極力使わないに越したことはない。

大学病院からもらった薬の中にも、どうやら飲まなくても良いものが何個かあるらしい。

詳しくは、またガン相談センターに行って聞いてくるがやっぱり「大学病院コンチクショー」と思ってしまう(笑)。

フコイダン 本当に効く?

フコイダン。簡単にいうと、もずくや昆布に多く含まれるとされるヌルヌルの元。

難しくいうなら、、硫酸基を含む硫酸化多糖類に分類され、ガン細胞を自滅させる働きをしてくれるという。

フコイダンを含む食材は、沖縄もずく、めかぶ、ひじき、ヒバマタ、かごめ昆布などの海藻類。

抗がん剤に代わるガン治療に有効な成分として世間では注目されている…と、いうのが通説ですが「果たして本当に効果があるの!?」と思う方が多いのではないでしょうか。

 

そこで、少々調べてみました。やはり、こういったものは確かなデータのみがものを言いますので効果があるかどうかは、いくつかのデータをみて判断していくことにしましょう。こちらのリンクからデータを見られます。↓

>>癌患者を対象に行ったフコイダン治療の臨床データ<<

 

リンクページのデータは成功例ばかりですのでどれも、明らかな効果を証明しているかと思います。

しかし、こういったデータを見て、結果を鵜呑みにしてしまうのも危険かと思います。

なぜなら、命が懸っているガン患者が、健康食品止まりのフコイダンを使用した治療のみに頼るとは考えにくいからです。

当然、抗がん剤放射線治療など、なんらかの治療法を併用していることでしょう。

フコイダンに関する色々なウェブサイトや書籍を見ても、こぞって「癌に対して有効」ということを書き連ねてありますが逆に、「効かない」というデータもないものか?と思いましたが、「効かない」ことを証明するデータなんてものは転がっていないですね…当たり前と言えば当たり前の話なんですが。

今後、さらに研究が進めばわかりませんがこの記事が書かれた現在、フコイダンは医薬品とは認められていません。あくまで「民間療法」のひとつでしかないのです。

ここから先は筆者の個人的意見ですが患者にフコイダンを与える前と与えた後でそこまで劇的な変化があるかというと、クエスチョンマークが付くかと思います。

実際、僕も抗ガン剤治療中の母にフコイダンの顆粒や、もずく、めかぶ等を食べさせてはいますが白血球やリンパ球の数はさほど変わらず、腫瘍マーカーが低下するようなこともありません。

ただ、ここが考え方で「フコイダンを与えなければ、もっと悪化していたかも…」という思いがあるので、効果を確信できなくても続けてしまうんですよね。

 

「気持ちの問題」でもいいから少しでもガン治療の助けになれば…と。

何もしないで後々後悔するより、何でも試してみた方が精神衛生上はいいですからね。

なのでもし使用をご検討でしたら、たくさんあるフコイダン製品をよく吟味したうえで、良さそうなものを選んでお使い頂くとよいと思います。

まだ、僕自身もリサーチ中ではありますが、信頼できそうな販売サイトをご紹介したいと思います。

癌患者だった母の生きがい

冬の寒い日のこと、母が編み物を始めた。

「テレビ見てると眠っちゃうから」

だそうだ。

 母はガンの疼痛緩和のため痛み止めのオピオイドを飲んでいるので、一日の半分以上は眠っている。その時間がもったいない、ということらしい。

 確かに、手指を動かすのは健康によさそうだし何か作りモノをすることで「目標」ができて、生きる力も沸いてこようというもんだ。

僕が戻った当日や翌日より、ここ数日は体調も良さそうで食事の量も少しだが増えた。

左耳から顔の筋肉にまでガンが広がっているせいで左の頬がパンパンに腫れあがり、かなり痛むようなので栄養補助の医療用飲料やヨーグルト、ベビーフードをさらにドロドロになるまで父が潰して与えている。

歩行や手作業は問題ないので、料理や洗い物なんかは自分から進んでやり出す。

 最初こそ

「いいから、任せて座ってなよ!」

なんて言ったもんだが、「これも母の「生きがい」のひとつなわけだよな…」と思いなおし、できる家事は母にやらせることにした。

それに、なるべく動いていた方が体が活性化するし、ガンの痛みを和らげることにも繋がるだろう。

そんなわけで、毎度の食事は母と父と僕、3人でワイワイ言いながら作る。

母だけでなく、なんだか父までも楽しそうだ

僕が家に居ることで、少しでも母の体に「癌と戦う力」が湧くように父とたくさん協力して行こうと思った出来事だった。

3度目の癌の手術後の母

頭が陥没したようになってしまった脳腫瘍の大手術の後母はまるで人が変わったようだった。

昔は、どちらかというとヒステリックでカリカリしやすい性格だったと思う。

だが、脳の一部を取ってしまった影響で、ぽわん、としたいわゆる「ボケ」に近い症状がみられるようになった。

母の言動は時に脈絡がなく、耳も遠くなったようでしばしば会話が噛みあわなかったり、話をまったく聞いていないというか、理解できていないようで、また同じことを繰り返し言わなければならないことが多かった。

 

母の「奇行」のひとつを紹介すると、例えばこうだ。

ある日、父が「テレビのリモコンが見あたらない」というので家族全員で探したが目ぼしい場所にはどこにも見つけられなかった。

「そのうちどこかから出てくるだろう」とその時は放っておいたが翌日の朝、朝食の時間に牛乳を飲もうと冷蔵庫を開けたら、そこにあった。

冷蔵庫の扉部分の飲み物立て。牛乳の隣にリモコンがよく冷えていた。

と、こんなことが日常的によくおきた。

 

僕ら家族は心配半分、あきれ半分だったが、当の本人は、なんだか子供みたいに呑気に楽しげな毎日を過ごしていた。

本当に大丈夫か、とおっかなびっくり見守っていたが半年も過ぎると、車の運転もできるくらいに回復し、すこしづつガンを克服しつつあるのが見て取れた。

母は思考が鈍くなったぶん、悩んだり怒ったりも少なくなり穏やかでそれはそれで幸せそうで少しうらやましいとさえ感じた。

父も、壊れモノを扱うとまでは言わないものの、以前に増して母に優しく接るようになって家族全員が丸くなったような気がする。

荒れていた僕も

「がんばらなくっちゃ」

という気になり、上京を決意した。

 

そこから10年以上も家を離れて親不孝したんだよなぁ。

 

今はすこーしだけ後悔もあるかな…言ってもしょうがない部分ではあるのだけれど。

母の大手術

母の大手術

僕が中1の時に2回目、そして高1の時に3回目と母は3年置きに手術を繰り返した。

さすがに、この頃になると薄々気づいていた。

母は癌なのだ。

特に、3度目は1月以上の入院が必要な大手術だった。

術後の母の頭は見るからに痛々しい様子で髪はすべて丸刈りにされ、左側頭部にはガン細胞を切り取るため大きく切開された手術跡。

何より、半円を描くように付いたその傷の内側が「べコッ」とジャガイモのように凹んでいたのが見るに耐えなくて、強いショックを受けた

脳腫瘍である、と父は決して言わなかったが頭蓋骨をえぐらなければならないほどの病気なのだ、ということは理解していた。

 

母が放射線治療まで終え、退院して家に戻って来た日のことは鮮明に覚えている。

当時16歳の僕は少々グレていて、高校にはほぼ行かない、不登校というカタチだった。

その日の夜、二階の僕の自室に退院したばかりの母が突然やってきてそんな僕の現状について説教というか、嘆くというか、ともかく捲し立てるようにしゃべり出したのだ。

これには面喰った。

だって母はガンの大手術を終えたばかり。退院したままの寝巻姿で、坊主頭に包帯を巻き、とても「まとも」な状態には見えなかったからだ。

しかも、言っていることがなんだかちぐはぐで、同じことばかりをただ何度も繰り返したりもするので支離滅裂で、うっとうしいと思った当時の僕は

「もう出て行ってくれよ。」

と母の肩をポンっと押した。

すると、母は座ったままの状態で「コテン」と倒れてしまったのだ。

きょとんとして見ていたら、亀のようにもがいた後「お父さん…助けて?…」と、か細い悲痛な声を上げた。

どうやら自力で起き上がれないようだ。

 

あわてて背中を抱いて助け起こしたもののなんだか無性に悲しかった。

自分で体を起こせないほど弱っていたこともそうだが一瞬、本気で「息子に殺される」とでも思っていたかのように父に助けを求めたこと。

母は、ガン細胞を取り除くため脳の一部までも切り取られてしまっていた。

そのため思考が定まらず、自分の体のコントロールもできなくなってしまったのだ。

「母は別人になってしまった。」

と思い、僕は絶望感に目の前が真っ暗になった気がした。

母の癌

僕が子どもの頃。

親戚の叔父さんに池袋の「サンシャイン60」に連れて行ってもらったことがある。

当時、60階建のビルは日本最高で、子供だった僕と兄はただただ興奮して東京での一日をエンジョイしたものだ。

今から思えば、あれは幼い僕らを不安にさせまいと講じた父の「策略」だったのだと気づく。

その日が母の最初の脳腫瘍手術の日だったのだから。

叔父さんに連れられて群馬の家に帰宅した僕ら兄弟を父ひとりだけが出迎えた。

まさか母親がガンだとは知らず、楽しかったその日の出来事を無邪気に報告する僕らの声に対しなぜか、機嫌悪そうにしていた父の姿をなんとなく覚えている。

 「お母さんはちょっと具合が悪くて病院にいるよ。すぐに帰ってくるから、なにも心配いらない」

 と言い聞かされていた僕らは、たいした懸念もなく過ごしていたように思う。

それから数日後、実際に母は何事もなかったように家に戻ってきた。

左の側頭部に小さなガーゼが付いていたように記憶しているが本当にたいしたことはなさそうに見えたので、イマイチはっきりと覚えていない。

子供だったから無理もないが、今からするとあの時、母がガンだということに気付いてあげられていたら…と、悔やまれる思いだ。

それから母は2度、3度と脳腫瘍摘出の大手術を経験することになる。

このブログについて

これは友達にも話せない、僕の独りよがりの日記。

父に見られたら「余計なことを書くな」と、たっぷり説教されるに違いない。けど、少しでも共感してくれたり同じ苦しみを抱えた人たちの励みになったらとても嬉しいと思う。

今は東京から群馬県の実家へ向かう列車の中。

今日、ようやく12年住んだ東京のマンションのリフォーム作業を完了し、不動産屋に鍵を託してきた。

これからは家族全員、力を合わせて生きていこう。そもそも、パソコン一台でできる仕事をしていたことが僕のラッキーなところだ。

母親がガンだと聞かされた時、迷うことなく実家に戻る決心ができた。

群馬と東京の近さもラッキーだ。

何かあったら2時間ほどですっ飛んで行ける距離。

東京の仲間と始めたビジネスも、志半ばの俳優の仕事も継続してやることができる。

母 58歳 抗ガン剤治療を受けている
父 61歳 元銀行員。母の病気を機に引退
兄 34歳 エース営業マン。埼玉県在住
僕 31歳 出戻り。 動画製作者&売れない役者

癌。

僕たち家族は、母の病状にある種の覚悟はできている。だけど、決して誰一人嘆いたり暗い表情を見せたりしない。

ガンを克服するのには、笑顔が一番とよく聞く。

 笑ったり泣いたり怒ったりを、日々の暮らしの中で共有しあうのが家族。

そして、きっとそれがガンに打ち勝つ力になるんじゃないかと信じている。僕が家に戻ることで、ただ毎日を母と一緒に過ごすことでほんの少しでいい。

 ほんの少しでも「その時間」が延びてくれればいいと思う。

1日でも長く、母といっしょにいたい。